自由論…ある意味、ウチの道場ではバラバラに稽古している理由


 本当に、今の世の中どうなっちゃったんだろうって思うシーンが一杯です。政治家も、官僚も、企業経営者も…どうしてどうして、サラリーマンもOLも、オトナもコドモも、責任逃れしてる奴ばかりでゲンナリして来る。
 別にこっちは責任を追及しようとしてる訳じゃなく、単に起きた事の事実を知りたい、或いは早急に対処しようとしているのに、すぐ他に責任をなすり付けようとする。
 大丈夫。責任とるのはBOSSの仕事だから。
 えっ? BOSSが責任逃れしてる? あぁ……そんなんでもオーナーになっちゃうんだもんなぁ…

 「マニュアルにありませんから、できません」って?
 マニュアルが無いと動けない、マニュアル通りじゃないと動けない、んだよね。
 「会社で、マニュアル通りにやれって言われた」?
 それを言ってる会社の上司自身が、マニュアルが無いと何も出来ない責任回避重視型で、何の為に脳ミソってのがあるのか判ってない、若い者を育てる意味も判っていない、リタイアしたら
(皆のやっている)蕎麦打ちを趣味にしようと思ってる、と言いふらしているんだよ。
 こうした責任回避症候群の共通症例は、発想が自分の責任の範疇のみで、お客さんや、その先に居るお客さんのお客さんを意識していないって事ね。

 「会社では、相手の立場に立って考えろって言われてる」って?
 相手の立場になんか立たなくて良いんだよ。自分と違うんだから立てる訳が無い。
 できる訳が無い事を正論のように言うんだよ、出来ない奴は。
 相手を喜ばせる事だけ考えてみな。
 嬉しい事と嫌な事は大体が共通だから、喜ばせる事ができれば物事必ず上手く行く。


 組手やってみるかい?
 マニュアル通りの攻撃なんてありゃしないぜ。しかもこれなんか、相手にとって嫌な事のやり合いだ。嫌なことしなけりゃ勝てないんだもの。
 殴られ、蹴られ、鼻血出し…まぁ、最近はあまり見られなくなった光景だけど、それでもそれは、やる方もやられる方も自己責任。
 「形はマニュアルじゃないか」って?
 そう云う見方しかできないからアカンちゅーとんねん。
 あんな窮屈な動きで、実戦で使えない形の稽古がマニュアルの訳無いでしょう。順番と動きの形
(かたち)を覚える、と云う範疇のみがマニュアルと言えばマニュアルだね。
 形は、その稽古を通して、心身の動きを工夫し、身に付け、それを実戦或いは生活に応用、活用するものです。マニュアルでは、応用、活用はできません。


 視線を上に、広くしなきゃ。
 自分に固執していたら、組手だって、形だって、上達する訳が無い。
 仕事は尚更だ。
 基本も何も無いくせに自分に固執して、ちょっとしたことでも責任放棄して逃げ回る。
 「おくれ」「頂戴」ばかりで、「どうぞ」も「御陰様」も無い。
 情けないったらありゃしないね。
 人は一人で生きている訳じゃないから…自由で居る為には人の自由を認めなければいけないんだから…責任逃れ・責任放棄は自己矛盾
(我儘)のスタートラインだぜ。

 例えば、よく飲みに行く事務所近くの『とり鉄』さん。
 「いらっしゃいませぇ」「おーす、まずは、とりあえずビールね」「はぁい」
で、ビールが来ます。
 ジョッキに注いで持って来てくれたのは、ひとみチャン
(いつもはチャンなんて付けないけどね。「お〜い、ひとみぃ、ビール!!」)。
 扨て、このビールです。
 まず、注いで持って来てくれたのは、ひとみチャンだよね。
 その樽をセットしたのは…けんチャンかな。
 そうした彼らをコントロールしている店長・鈴木クン。
 「はい、お通し」
 これは板長 佐野ちゃんの仕事? ゴウちゃんかな?


 それだけじゃありません。
 ここは『とり鉄』日本橋店ですから、本社は別にあります。
 だから関係している、本社の経理事務のお姉さんに課長、部長、社長サン。
 更に、樽生を運んで来たトラックのドライバーさん。
 そのドライバーの所属している運送会社の経理事務のお姉さんに課長、部長、社長。
 樽生を造っているビール会社の担当さん。当然、経理のお姉さんに課長、部長、社長。会長もいるかも。
 ビール会社にアルミの樽を運んで来たトラック・ドライバーさん。運送会社の経理事務のお姉さんに課長、部長、社長。
 アルミの樽を造っているアルミ加工会社の職人さん。その会社の経理事務のお姉さんに課長、部長、社長。
 ビール会社に麦芽を運んで来たトラック・ドライバーさん。運送会社の経理事務のお姉さんに課長、部長、社長。
 ビールの麦芽を生産している農家のお父さんにお母さん。その稼ぎでアメリカの大学に留学して農業の勉強をしている長男A君がいたりとか。
 いずれそのA君と国際結婚する事になる、同じ大学で経営学を勉強している大手農場の娘B嬢。
 +ここ迄に関わった人達の家族みんな……

 たった一杯の「とりあえずビール」が、とてつもない数の人と繋がっています。
 その中の何人かは武道を習得しているかもしれない。
 そのまた何人かは、空手をやっているかもしれない。
 そのまたまた何人かは和道会かもしれない。
 ひょっとしたら、この間の大会で組手をした相手だったりして。
 今朝の通勤電車で隣に座っていた人は、ビール会社の経理のお姉さんかもしれない。そのお姉さんは北海道出身で、高校時代は農家のA君の同級生だったりしてね。

 考えましょう。みーんな、繋がってるんだよ、きっと。
 としたら、我儘や、責任放棄、できないでしょう。みっともなくって。


 さて、では自由論です。

 まず、ちょっと調べれば出て来る一般的解釈を。
●自由の概念:
 近代における自由の概念は、「他者の意志にではなく自己自身の意志に従って行為する事」として捉えられます。
  この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育みました。社会契約説では、政府による統治がその正統性を獲得 するのは、社会契約に対する被統治者の同意によるとされた上、社会契約を破った政府に対しては、これを覆す権利
(革命権)があると説かれています。
 自由はまた他者の自由とも衝突します。 他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方はJ.S.ミル『自由論』の中で表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観です。
  イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において自然の因果系列とは独立にあらたな系列を始める絶対的開始の能力として超越論的自由を論じました。この超越論的自由は、理論理性においては単に消極的に想定可能であるだけでしたが、『実践理性批判』においては道徳法則に自ら従う実践的自由を積極的に論じまし た。
 エーリッヒ・フロムは、ナチズムや日本軍国主義が台頭していた1941年に出版した『自由からの逃走』の中で、民主主義社会において自我を持てぬ
(消極的自由はあっても積極的自由を実現できない)人間は孤独と無力感にさいなまれ、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉すること になると記しました。
 アイザイア・バーリンは、「二つの自由概念」において、フロムが消極的自由の対照概念として挙げた積極的自由の概念も、他者との連帯を求めるが故に究極的には全体主義へ繋がるとしています。
 またデュルケームでは、ギリシア語のanomos
(法がないこと)に由来するアノミーが提唱されており、制限のない自由が個人をかえって不安定に陥れることが指摘されています。

● 「フリーダム」と「リバティ」:
 「freedom」と「liberty」は、ともに自由と訳されます。
 現在、この二つの語はほぼ同じ意味で用いられますが、その意味合いは微妙に異なっています。
 フリーは古英語のfreoに由来し、束縛や拘束がなく義務を免除された状態、すなわち自由の消極的側面
(しなくてよい)が強調されます。
 一方リバティはラテン語のlibertasが語源であり、選択や行動・発言の権利が保障された状態、つまり積極的側面
(してよろしい)に比重が置かれます。
 両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点です。freedomおよび libertyの用法にも残っていますが、近世までは特権を意味する語でした。民衆の持ちえない権利を有している状態がfreedom/libertyで した。
 1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる高貴なる者の特権と定義され、但し書きで「一部で、各人が思うように行動でき る力という意味でも用いられてきている」と言及されています。

●訳語の由来:
 福沢諭吉はリバティを訳すに当たって、仏教用語から「自由」を選びました。初めは「御免」と訳す予定だったようですが、上意の意味が濃すぎるとして改めたようです。

 いやはや、読むだけで肩が凝って自由が束縛されそーな感じだよね・・・

 私としては、J.S.ミル『自由論』が良い、と言うか、自分の考えに合っていると思っています。
 ですから「自由とは個の意思・肉体の主体・主権を保つことであって、自分の自由は、第三者の自由を認める事によって保障される」のだと、考えています。
 要は、自分が自由にしたければ、人の自由を束縛するなって事です。
 人の自由を抑制・束縛したら、それは強制ですから、自分の自由も強制的に抑制・束縛される訳です。
 ところが、人の自由は許さずに、自分だけを自由にさせろって言う連中、多くありません? 老いも若きも。
 「〜するのは俺の自由だ、お前は我慢しろ」「〜は私の自由でしょ、あなたは駄目」って、それは「〜するのは俺の勝手だが、お前は勝手するな」「私は勝手に〜するけど、あなたは勝手な事しちゃ駄目」って事でしょ。
 「〜するのは俺の我儘だ」「〜は私の我儘です」って言ってるんだけど。
 そう言うのを、「サイコパス*」とか「マニピュレータ**」って言うんです。
(*サイコパス=http://www.psy-nd.info/参照)
(** マニピュレーター(英 Manipulator)=手で操縦することを意味するマニピュレート(動詞)、マニピュレーション(名詞)する人や、機械などの道具。ロボットやシンセ サイザーなどを操る人や、遠隔操作をするマジックハンド、自動電鍵での符号を打ち出すパドルなど。また心理学において、マインドコントロール(洗脳)を促 すもののことをいう。)


 個体として集団
(社会)の中で生活(共生)するには、勝手は許さ れません。個の我儘を通しては、社会人として共存できません。それなのに、ちょっとした事で「だりぃ」「むかつく」「キレる」? そして勝手をして迷惑を かける。人に迷惑かけといて「俺の自由だ、お前は我慢しろ」って……迷惑かけるって事は、人の自由を束縛するって事なんだけど、それに気が付いていない。 こんな自分勝手って、卑怯だよね。恥ずかしくないですかね。

 そしてまた、それを「個性だ」やら「個性的な…」やらと、これまた間違った論を吹き捲くる。
 ま、「個性」については、いずれテーマにしようと思ってますんで、その折に。

  迷惑も、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」のような一過性の恥、迷惑、或いは成長の為に必要な物事で、そして「自分は今恥をかいている」「自分は今迷 惑をかけている」という事が判っていて、その後長く掛かってもその恥、迷惑を雪いで余り有るようにする努力をするんだったら、これは一つの方便として認め られると思う。ま、まず殆どがそんな事思っちゃいないけれどね。

 そして「自分が自由にしたいから、人の自由を束縛しない」って事は双方向の意識じゃないと意味ないよね。皆の、人としての、社会人としての精神的なバランスだ。
 「あなたの自由を保証する為に自分は●●●を我慢します」
 「自分は●●●を我慢するから、○○○はやらせて(○○○をする自由を認めて)」
 「あなたは○○○がしたいんだったら、●●●は我慢なさい」
 「お互いの自由は、お互いの我慢
(感情・言動のコントロール
から」って事でしょ。「何でも好き勝手にできる事が自由」ではないんですね。
 自由って、人が持つ権利でしょ。権利の主張には、為すべき義務が必ず付帯しますよね。

 会津武士の子弟教育の規範に「汁
(じゅう)の掟」と云うものがあります。
「1. 年長者の言う事に背いてはなりませぬ
 2. 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 3. 虚言
(うそ)を言ってはなりませぬ
 4. 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
 5. 弱い者をいじめてはなりませぬ
 6. 戸外で物を食べてはなりませぬ
 7. 戸外で女の人と言葉を交えてはなりませぬ
 8. ならぬ事はならぬものです」
と言う八ヵ条です。
 要は、年長者を敬いなさい
(逆に言えば「敬われる年長者たれ」

 嘘と卑怯とイジメは外道の事。
 衆人環視の中でベタベタしてんじゃねーよ、こら。何か食べながら歩くんじゃないよ。そー云うのは「みっともない」事なんだぜ!!
 そして何と言ってもこれが良い。「ならぬ事はならぬもの…つまり、駄目なものは駄目!!」
 人として、やって駄目なものは駄目! 言って駄目なものは駄目!
 「駄目なものは駄目」と教えるのが教育じゃないのかな。
 つまり、「駄目なものは駄目」と言う規範が有るから自由が保障されるんです。

 ま、これを間違えて規範・規則だらけにしてしまう馬鹿なオトナもいますがね。規範・規則だらけで自由を認めなければ、それは強制・抑制って事でね。

 人権も同じ。
 最近、何でも「人権」って言えば通ると思っている輩、多くないですか? しかもかなりの我儘拡大解釈で。
 人権の保障は、「自分の人権保障と第三者の人権保障のバランスの基にある」んでしょ?
 「〜は人権侵害だ」って、それを言う事自体が「私
(こちら)に対する人権侵害だ」って言いたくなる時、ありませんか?
 国権だって同じでしょう。
 特に、日本の近くに何カ国かありますな。そりゃあ物事を知らないガキの論理だよって事を、平気で言い放つ国。

 自由を含み権利と云うものの概念を間違えると、個人も国
(指導者の問題だから、つまりは個人に帰結しちゃうんだけど)も、大恥かくって事だね
 桑原クワバラ…
 「美しい国 日本」って、「恥を知る文化を持つ国 日本」じゃないのかね

(2007年6月)


 雑 記

Copyright 2011 npoJHPPS & Shitan-juku all right reserved.