道場に祭られる 鹿嶋神宮と香取神宮

鹿島、香取神宮 武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられていることが多いのですが、その理由は、鹿島神宮の主祭神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)が、香取神宮に祀られている経津主神(ふつぬしのかみ)と共に武芸の神とされているからです。
 ウチは中央区の体育館を借りて活動していますから、常設はできません。そこで、左のようなデザインで磁石になっているA4サイズほどのシートを、貼って使っています。

 さて、この二柱が「武芸の神」とされる元々は、大和朝廷と出雲王朝の国取り合戦です。
 大和朝廷
(代表・天照大神)は、全国制覇(倭統一『豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)』化計画)を目論みます。
 そこで軍勢を全国あちらこちらに派遣したのですが、その内、出雲王朝
(代表・大国主命(おおくにぬしのみこと)須佐之男命(すさのをのみこと)の息子)が徹底抗戦しました(どうやら、北九州の王朝と統一戦線を組織していたようです)。しかもこれが強くて八岐大蛇(やまたのおろち)伝説にある通り、鉄器文化の出雲ですから、武器が豊富です)大和側の敗北に次ぐ敗北。悩みの種となります。そこで使わされた最終軍団が経津主神(香取大明神)と建御雷神(鹿島大明神)を指揮官とする、大和最強軍団。
 因みに、ご存知のとおり『古事記』では須佐之男命は天照大神の弟ですよね。つまり大和と出雲は兄弟のはずです。ところが『日本書紀』では、このように敵になっています。

 ともかく、建御雷神が大国主に葦原中国の国譲りを迫ります。流石の大国主も、態度を保留。返事は、息子の事代主がすると言います。事代主は一旦は国譲りを承諾しますが、すぐに実権を放棄して引退してしまいます
(この辺りは、おそらく北九州の援軍待ちの様相が強いと思います)。建御雷神は答えが出なくてイライラです。すると大国主は「では次は建御名方神が答える」と言いました。まぁ、外交戦略の一環です。
 建御名方神も建御雷神に劣らず、武力、腕力に秀でた若者でした。当然、交渉は決裂。テーブル会談から実力行使、武力衝突になります。
 建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出ます。くんずほぐれつ、さらには岩を投げ合い
(集団肉弾戦と石つぶて攻撃)を仕合います。
 その内、建御名方神が組み合った建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手が氷や剣に変化しました
(情報操作での建御名方神側の攪乱と反乱、内乱、建御雷神側の武器や兵士の補充、兵站の充実といった処でしょう)
 これを恐れて建御名方神は逃げ出し、科野国の州羽の海まで追いつめられました
(長野の諏訪湖)。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従を約します。
 この建御雷神と建御名方神の力くらべが、後に日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
 因みに、この神話は『古事記』にのみ残されていて、『日本書紀』での葦原中国平定にあたる部分に彼の名は見えません。

 そして、鹿島神宮・香取神宮は共に、蝦夷に対する大和朝廷の前線基地です。
 「え? 鹿嶋、香取って、茨城、千葉でしょ?」と言った貴方、その通りですよ。
 「日本武尊(やまとたける)は、蝦夷征伐に出かけられました
(記紀)」って、実は日本武尊の蝦夷征伐伝承って茨城が北上の限度なんです。この辺りについては、話が飛ぶので改めて別項にします。
 で、とにかく、蝦夷地は実はかなり西に下りていたんですね。その蝦夷地を大和側が押し上げて行って、最前線の防柵が鹿嶋、香取だったんですね。
 そこで蝦夷との戦の守護として、伝説の鬼神・軍神である建御雷神と経津主神を祭ったのが、鹿島神宮と香取神宮というわけです。
 また因みに経津主神とは、実は建御雷神が帯刀していた剣のことで、鞘走る時の「フッ!」という音から来ているものです。

 次いでながら、何故『古事記』『日本書紀』という、同じような内容であるのに微妙に違いのある文献が、同時期に記されたのでしょう?
 要は、字のママ。
 『古事記』は、大和朝廷が自己の正当性を倭の地方国主に知らしめ、洗脳する為。ですから、国の平定に努力した部分が多くなります。
 『日本書紀』は外国
(主に当時の中国大陸の王権。中国や中華という国はありませんからね。要注意。あの国に――卑下している訳ではなく――4,000年の歴史はありません)対策用の外交文書です。ですから、王統の正当性をアピールする部分が多くなります。

(2011年9月)


 雑 記

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